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谷です。復活早々、物議をかもし出します。
Jakaさんが
>言い訳をする高校生をひっぱたきました。
>なんですか、俗に言う体罰禁止の人柄の人はダメですね。
>体罰無しに教育や育児は出来ないと思います。
>ま、なんにせよ体罰は必要です。
ということを書かれていて、私も教育関係に籍を置く人間として素通りできなくて。
あ、もちろん以下に書くのは、私の個人的な意見です。
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まず、私は Jaka さん同様、体罰是認派です。確かに体罰は必要です。ここでいう体罰とは、殴る、ひっぱたく、投げ飛ばす、廊下に立たせる、丸坊主にするなど、すべての身体的にダメージを与える行為をさします。
しかし、体罰はおおきなふたつの前提があって初めて成立するものだと思っています。それは、
1.体罰を与える側に、体罰に対する目的意識があるかどうか
2.体罰を与える側と受ける側との間に、それなりの信頼関係があるかどうか
です。このふたつの一方でも欠けていれば、それは体罰ではなく、ただの暴力です。
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1.から説明していきます。
体罰を与える者は少なくとも、体罰を相手に与えることによって「相手を更正しよう」という意識がなければなりません。「ムカついたから殴った」というのでは、自分の鬱憤をはらすための行為であり、それは体罰とはいえません。
体罰を与える者は、体罰によって相手を反省させ、同様の悪い行いをしないようするという「相手をより良い方向に導く」意識が必要です。そのためには、いつ、どのような形で、どのような体罰を与えるのが最も効果的なのか、ということをきちんと認識しておく必要があります。言い換えれば、効果のない体罰は、体罰ではないのです。30歳の大人が仕事をしないからって上司に殴られたとしても、それによって上司を恨むことはあっても、仕事をするようにはならないでしょう。大人の世界では、体罰は効果がないからしないのです。逆に軍隊の世界では、体罰に効果があるから、上官は兵隊に腕立て伏せなどの体罰を与えるのです。
体罰は相手に反省をうながすための行為です。そのため体罰は、いかなる場合であっても相手に身体的欠損(つまり怪我や病気)を与えてはいけません。体罰を与える側に更正する意識があっても、怪我をしてしまったら体罰を受けた側は「なぜ体罰を受けたか」という根本的な部分を忘れ、「怪我をさせられた」という意識だけが残るでしょう。それでは体罰に何の効果もないばかりか、傷害罪で訴えられてもしかたのないことになります。
私の高校時代に、本当に殴ったり蹴ったり、しっかり体罰を与える体育の先生がいました。彼は「たしなめる」「叱る」「体罰を与える」という基準を彼なりに持っていました。ですから殴られた側は、その先生に殴られたことをそれなりに納得したものです。また、どれだけボコボコに殴っても(皮膚が赤く腫れることはあっても)絶対に怪我をさせませんでした。その加減はすごいと思いました。
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2.について。
体罰を与える者は、体罰を受ける者と、それなりの信頼関係を構築しておく必要があります。極端な話、嫌いだと思っているやつから体罰を受けると、相手を憎らしいと思っても相手のいうことを素直に聞き入れる気分にはならないでしょう。また、正論をふりかざす見ず知らずのオッサンから殴られたら、いくらその人の言っていることが正しくても、反省する気にはならないでしょう。つまり、信頼関係のない人からの体罰は、教育的効果がまったく見込めないことになります。教育的効果のない体罰は、暴力でしかありません。
前述の高校の先生は、「殴るやつほどかわいがる」ことをしていました。殴られることのないおとなしい生徒にしてみればえこひいきにも見えたのですが、あれがあの先生のケアの仕方、信頼関係の構築手法だったんだ、と今になればわかります。きちんとケアするから、殴られた側もいうことをきくのです。
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最近、学校での体罰禁止論がとりざたされています。それはとにもかくにも、体罰を与える側が体罰をきちんとコントロールできないという事実、先生と生徒との信頼関係が崩れてきているという事実に基づいているものだと思っています。
みなさんは、どのようなご意見をお持ちでしょうか。議論するつもりはありませんが、「こんな意見もあるんだ」ということを知っておくのはよい機会です。ぜひ、ご投稿ください。
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